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2006年4月 8日 (土)

キャンプ・シュワブ沖合移設堅持を!

Heritsuiraku01 私が中学一年生だった昭和四十七年五月十五日、沖縄は悲願の本土復帰を果たしました。

ところが、米軍普天間飛行場の現状は何ら変わらず以前のままです。

まさに校舎の目の前は、道路と鉄条網を隔ててすぐ基地。離発着する戦闘機やヘリコプターが、毎日手を伸ばせばすぐ届きそうな眼前に見えます。

その爆音は半端ではなく、一日に何度となく授業が中断されました。小学校から上がってきたばかりの私には異常としか思えませんでした。

復帰直後の五月下旬頃、ひとりのオジーが爆音の激しい基地に向かって腕を組み、憮然とした表情で飛行機をにらみつけています。

戦中、戦後のあまりに厳しく悲惨な時代をくぐり、生き抜いてきたそのオジーの目の前には、決して終わらぬ戦後がありました。

その背中は本当に怒りに震えているようでした。

国語の授業で短歌の課題が出された折、私はそのオジーの、基地も戦争もない平和な世界が実現できるようにとの切なる願いを代弁して次のように詠み、オジーの切実な願いが叶えられるよう心から祈りました。

 「爆音と 共に飛び立つ 飛行機め 何が自衛だ 音公害機」

ところが、平成十六年八月十三日、普天間飛行場を離陸したCH53D大型輸送ヘリが、こともあろうに沖縄国際大学に墜落。

復帰以降、十四回も墜落事故を起こしている米軍ヘリが、初めて基地外の住民地域に墜落したことで、私たちは強い衝撃を受けました。

市内真志喜にある私の自宅からその大学は目と鼻の先です。

学生・市民への人身事故に至らなかったことは、まさに奇跡としか言いようがありません。

何度も同型ヘリの飛行差し止め、全面的なヘリの飛行停止の訴えがなされましたが、米軍および日本政府の対応は、あまりにも理解のない冷たいものでした。

さらに、在日米軍再編の中間報告に示された普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設について、当時県内の世論は七割強が反対していました。

ところが、県も地元名護市も受け入れたシュワブ沖の海上案を、地元に何の打診・相談もなく沿岸部への移設へ変更すると政府が発表。日米両政府「合意」の下で決定され提示されたものです。

政府はさらに、基地建設予定海域の使用権を県から国に移す特措法案を年明けの通常国会に提出する動きすら見せ、県民の意思を全く無視する形で事を進めていきました。

島袋吉和名護市長は二日、移設案をめぐる政府との協議について「名護市の考え方を堅持しながら、国と対峙していきたい」と言及。

一方自民党の久間章生総務会長は「政府は振興策を全部やったわけだから、あちらも約束を果たしてもらわないといけない」と述べ、名護市側の譲歩を求めています。

去る大戦で、唯一地上戦を経験し、十数万もの住民および日米の軍人・軍属を含めると二十数万もの尊い血が流された沖縄。

さらには戦後六十年にわたって過重な基地問題、基地被害に苦しんできた私たちに、これ以上の負担は厳しいと感じています。

オジーやオバーたち、父や母たちの長い苦しみや痛みに全く理解の心を持たない、振興のアメと沿岸移設譲歩のムチを突きつける政府のやり方には断固反対です。

宜野湾市の痛みを自ら引き受けつつ、普天間飛行場ヘリ事故の惨劇を二度と繰り返すことのないよう市民の命と財産を守るべく沖合移設を堅持する名護市の姿勢は、決して批判に当たらないと考えます。

強者の論理によりもたらされる弱者の苦しみや悲しみ、痛みはもうたくさんです。

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